小学校の図工の時間にあった版画の課題に、ナンシー関さんの「田中邦衛」の絵で臨んだわたくしですから、この本を手に取るのは自然です。
2002年に39歳の若さで亡くなった、稀代のコラムニストかつ消しゴム版画家であるナンシー関さんの生い立ちや仕事内容を、豊富なインタビューを通して編纂されています。
コラムや文章は多くの本に残されていますが、それを時系列に追ってまとめてあり、そこから「ナンシー関とはなんだったか」を考察しているところが本書のポイントとなっています。
ナンシー関さんはテレビの評論を書くにあたり、「顔面至上主義」を謳い、それを次のように定義しています。この文章がまたいい。
そこで私は「顔面至上主義」を謳う。見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見る。そして見破る。それが「顔面至上主義」なのだ。
テレビの舞台裏なんてどうでもよい。テレビ以外のスキャンダルもどうでもよい。テレビから見えるものだけで「テレビに出ている人」のすべてを見破る、それがナンシー関さんのテレビ評論なのです。
これは完全に論理的であり正論であり、そして唯一無二の正義と言えます。テレビに出ることを生業としている人は、テレビから見えるものだけがその人にとってのすべてです。「実際会ったらいい人だったよ」「街で見かけたときは印象悪かった」なんてどうでもよい。それはテレビ以外の環境における個人的主観的評価評論であり、「テレビを見る人」である一般には何も影響しません。
ナンシー関さんは、「テレビで見えるものしか見ない、そして見破る」という主義をしっかり定義し、テレビ評論を書いていたのです。
また、ナンシー関さんはテレビの評論を、個人的主観ではなく客観的かつ多面的に書いていたことが、本書で解りました。
わたくしが「いいな」と思う人のキーワードとしては「客観的かつ多面的に物事を見ることができる」というのがあります。物事を真剣にど真ん中に受け止めるのも大事ですしいいことだと思うのですが、タモリさん(タモさん(タモさま))も「物事は真正面に受け止めずに、サイドステップを踏んでちょっと横から見ると面白んだ」と言っていました。
ナンシー関さんは「テレビだけから見えるもの」を「目を皿のようにして見る」上に、「この見方は正しいか」ということを確認しながら、別の面がテレビから見えないかを探りながら、テレビ評論を書いていたようです。
「心に一人のナンシーを」とは、物事を見える範囲でしっかり見た上で、しかし多面的な可能性も排除せず、自分の考えが独善的になっていないかを確認しながら仕事をするナンシー関さんの哲学、つまり個人的主観ではなく客観的かつ多面的に物事を見るクセを誰もがつけるべきである、ということを表しています。
「心に一人のナンシーを」、すべての人に必要な哲学と言えるでしょう。
「面白くなくなった」と言われてしまっているテレビですが、もしナンシー関さんがご存命であったら、テレビはもう少し面白かったかも、あるいは、もう少し面白く見ることができたかも、なんて思ってしまう本書でした。オススメです。
ナンシー関さんが不在の日本ですが、テレビもネットも独善的にはなっていないか、心配です。