国民的アニメ『サザエさん』がその番組を開始する際、主人公でありその題目の中心に位置する「フグ田サザエ」は、こう宣言します。
「サザエでございま〜す」と。
これに対し、わたくしの妻は怒りをあらわにしていました。
「誰も呼んでないのに『サザエでございます』とはなにごとか」「こちらは呼びかけていない以上、誰に対して自己を主張しているのか」「承認欲求が過剰」「コミュニケーションが受け手と出し手のキャッチボールと仮定するならば、これは単なる暴投といえる」「サザエはやべえヤツなのか」「こんなやべえヤツに日曜夕方のお茶の間をお任せしてよいのか」
言葉を紡いでは溢れる罵詈雑言。
妻がなぜここまで怒りをあらわにするのか。
改めて考えてみると、そこには看過できぬ理由がありそうです。
たしかに、番組開始と同時に「サザエでございま〜す」と宣言するフグ田サザエには、思わず閉口です。
わたくしたちはすでに、『サザエさん』というテレビ番組にチャンネルを合わせていることは承知しています。チャンネルを合わせている認識に欠けていたとしても、その曜日/時刻において、『サザエさん』が開始されることは日本国民のDNAにすでに刻み込まれているといっても過言ではありません。逆説的ではありますが、「サザエさん症候群(シンドローム)」という言葉すらあります。
日曜夕方は「サザエさん」。これはおそらく、世代を超えた共通的な深層意識ともいえるでしょう。
つまり、「言われなくても解っている」状態。なのに彼女は、番組開始と同時に「サザエでございま〜す」と、こちらの置かれている状況あるいは信念などを無視し、おかまいなしに語りかけてきます。自己の主張が激しすぎる。
直後に歌い出される主題歌の歌詞に目を向けると、以下のとおりです。
お魚くわえたドラ猫 追っかけて
素足(はだし)でかけてく 陽気なサザエさん
驚くべきことに、このエピソードが「誰のものか」という情報を、比較的長い一節の末尾に置いています。通常は考えづらい歌詞の構成です。
これはすなわち、「この歌詞のエピソードがおなじみの『サザエさん』にまつわるものであることは、もはや自明である」ということを表しています。お魚の話でも、ドラ猫の話でも、素足の話でもなく、「サザエの話」。しかも陽気。
前述のとおり、「サザエの世界の始まり」をわたくしたちは強烈なまでに了解したあとですから、主題歌においては「サザエ」の単語を文末に持ってきてもよいという判断だったのでしょう。
「視聴者はこの主題歌が流れる時点ですでに、『サザエの世界の始まり』を強く了解している」という前提を、フグ田サザエは意識しているのです。だからあえて彼女は、この歌はなんの歌かな…? お魚かな…ドラ猫かな…素足かな…、いやいや、当然のごとくフグ田サザエでした〜、と、自然にもったいぶることができたのです。なかなかの策士です。
わたくしたちは日曜夕方だから『サザエさん』が放映されているのか、あるいは『サザエさん』が放映されているから日曜夕方と認識しているのか、もうどちらが先行しているのか解らない世界に生きています。
そのうえで、フグ田サザエは今宵も宣言するのです。「サザエでございま〜す」と。
言われずとも解っている。わたくしたちは解っている。いまから「サザエの世界が始まる」ことを。
いや、それでもまだ解っていない国民がいるかもしれない。だから彼女は宣言するのです。「サザエでございま〜す」と。そう、彼女がすべてを「完遂」するまで。そこには陽気な世界があるのでしょう。
「こんなやべえヤツに日曜夕方のお茶の間をお任せしてよいのか」。
妻の罵詈雑言はフグ田サザエに対してではなく、日本国民に向けての「警鐘」だったのかもしれません。