「自分がイヤがることを、他人にしてはいけないよ」
わたくしを含め多くの人間が、このメソッドで生きてきていると思います。
これはこれで正しいと思うのですが、裏側に潜む論理には注意が必要だなあと思います。
- 自分が喜ぶことは、他人にしてもよい
- 自分がイヤがらないことは、他人にしてもよい
一見問題がなさそうに見えますが、裏側に潜んでいるといえるこの論理は正しくありません。
あえて論理的に真となる対偶を取るなら「他人にしてもよいことは、自分はイヤがらないよ」になりますでしょうか。意味が解りません。
「自分がイヤがることは、他人もイヤがるかもしれない」から「他人にしない」は道徳的に正しいですが、このメソッドはここに孤立したものです。どこかに連関するものではありません。
「自分が喜ぶ」「自分がイヤがらない」から「他人にしてもよい」は、まったく成立しません。正しくは「Aさんが喜ぶ内容が明確であれば、Aさんにしてあげましょう」ですね。
つまり、「自分が喜ぶ」「自分がイヤがらない」を「Aさんが喜ぶ」「Aさんがイヤがらない」に置き換えて想像すること。単純にそれだけだと思います。
さいきんは、「『自分が喜ぶ』『自分はイヤではない』ことは、それそのまま他人にも適用できる」と考えている人が目につくような気がします。
「自分」を「他人」にそのまま置き換えることは数が異なるため不可能と言えますし、そもそも前述の通りこのメソッドは対偶を取っても意味が解りません。論理的には誤謬があると言えそうです。
論理的に正しくないものは、普遍的には使用できない。「ロジカルな人の方が他人の心を慮れる」って言われちゃうのは、きっとこういうことなのかなと思います。(ご参考)
多様性が叫ばれる世の中ですから、ひとりひとりの思想とか感情とか価値観みたいなものを論理的に推測し、ひとりひとりに合わせた接し方を考えて行動することが今後たいせつになるような気がします。
その最大公約数的な接し方、いわゆる『正解』が、「自分がイヤがることを、他人にしてはいけないよ」なんだと思います。そしてそれは、ただそこに孤立した考え方なのでしょう。