「自分を自分たらしめているものとは、何か」
太古の昔より、人類の多くはその深遠なる問いに対しての解を考えてきました。
自分が自分であること。往々にしてそれは、自らのあずかり知らないところにあるからです。
例えば、自分の顔。
自分の顔は、自分では見ることができません。しかしながら、他人はそれをもってわたくしというものを判定します。
本来であれば一生知ることのない自分の顔が、他人から見ると自分そのものであるというのは、なんとも不可思議なものです。
自分以外の全員が、自分が見たことのない、あずかり知らないもので自分を判断し判定している。それが顔というものです。
また、クリティカルな個人情報である氏名、生年月日についても同じことが言えます。
自分を自分たらしめ、かつ客観的で汎用的な情報である氏名と生年月日は、その情報が自分に付与された瞬間を、わたくしたちは知りません。(「付与された」と受動態になってしまうのも面白い)
自分の氏名がそれであるというのは、他人や世界が自分をそう呼んでいるからそうであると認識しているにすぎないし、自分の生年月日がそれであるというのも同様です。
わたくしの名前がわたくしの認識しているそれであり、わたくしの誕生日がわたくしの認識しているそれであると、わたくしは決して証明できません。
わたくしたちは、自分が母より生まれ出でた瞬間の社会との関わりについての、一切の記憶がないのですから。
母から「お誕生日おめでとうLINE」が来た誕生日2日前の朝、そんなことを考えました。
母から伝えられた生年月日の情報を大切にして生きてきたのに、そこからブレるとハレーションがやばい。