武蔵野線の車内に掲げられていた化粧品の広告に、小さく「すべてメークアップ効果によるもの」と書いてありました。
「すべて」とは、大きく出たな。
「すべて」という概念の扱いについて、哲学や論理学の立場からは非常に難儀するところです。
ある範囲を限定し、その限定された範囲の中で「すべて」ということはできなくはないのですが(必ず可能とも言い切れない)、その「すべて」をさらりと言ってしまっているのがこの化粧品の広告です。
「あのカラスは黒い」「このカラスは黒い」「見たことのあるすべてのカラスは黒い」という個別事象から「すべてのカラスは黒い」という結論を導き出す帰納法は、一般的によく使われる論理手法ですが、極めて脆弱です。「見たことのないカラスは黒くない蓋然性」に言及すると、この論理は破綻します。よって、「すべて」の範囲をかなり限定しないと成立しないのがこの論理となります。
そもそも「『カラス』とは」「『黒い』とは」についても正確かつ客観的に定義することが必要になり、前提に前提を重ねて初めて「すべて」を標榜することが可能となります。
しかし化粧品の広告は、その「すべて」を「メークアップ効果によるもの」と書いている。
前提を定めていない「すべて」である以上、広告の中の女性の眼球や鼻腔や輪郭や指先や衣服や思想や歴史や将来もメークアップ効果によるものである可能性があり、広告の範囲を超えた「すべて」と言っている可能性もある。
そうなると、わたくしの乗っている武蔵野線もメークアップ効果によるものであり、天地人、すなわち時空を超えた「すべて」がメークアップ効果によるものかもしれません。
「そんなことあるかい!」と言うのはカンタンです。「そんなの詭弁だし屁理屈だ!」と言うのもカンタンです。
でも、そんなにカンタンに証明できないのが「すべて」であり、自我や存在といった哲学を持ち出されると、どうしようもないのもまた事実です。
自我や存在を証明するのがその「そんなことあるかい!」と言っている人間の意識や経験や知識であるとなると、形而上学的証明に失敗しているので意味を持ちません。(「形而上学的」の言葉の使い方合ってますか?)
本当にわたくしたちは、「メークアップ効果によるもの」ではないと言い切れるのでしょうか?
わたくしたちを取り巻く「すべて」は、「メークアップ効果によるもの」。
「『すべて』とは、大きく出たな」と思ったものの、この広告が掲出された瞬間から、世界は「すべてメークアップ効果によるもの」になったのかもしれません。