「尻切れとんぼ」という言葉があります。
物事が途中でなくなり,最後まで続かないこと。中途半端。 「 -の話」
ここでいう「とんぼ」とは、昆虫のトンボではなく草履(蜻蛉草履)を指すようですが、こうして慣用句として「草履」ではなく「とんぼ」の部分が残ってしまった以上、トンボにしてみればいい迷惑でしょう。
トンボだって、尻が切れてしまっては生きていけないでしょう。尻の部分がちぎれてしまっては、飛ぶこともままならず、きっと死にます。
そんな状況だというのに、言葉だけがひとり歩きし、しかも「中途半端」という意味になってしまっている。
いや、「死」って、中途半端なものではないでしょう。
「尻切れとんぼ」という言葉には、その軽さとは裏腹に生物の終焉という恐怖があります。
トンボだって死は怖い。だから必死に生きている。生死を勝手に慣用句にしないでほしい。
だからわたくしはトンボに成り代わり、こうしてトンボの怒りを文章にします。
トイレットの個人ブースにおいて、尻を拭いたトイレットペーパーに付着した鮮血を目にしたわたくしは、そんなことを考えました。
わたくしは、尻が切れても生きてゆく。