たいした出来事でもないのに、小学生は興奮の坩堝と化しがち。
そういう点でも、小学校の先生ってたいへんだったろうなと思います。
たとえば、消灯。
なんらかの映像や演劇等を鑑賞する際に、暗幕が締められ電気を消されます。当然、周囲は闇に沈みます。
その刹那、「うおー」「きゃー」と奇声をあげる児童たち。それだけで興奮の坩堝でした。しばらくして「闇討ち!」と言いながらそこかしこで巻き起こる軽微な暴行事件。
ほかには、選挙活動。
これは我が国における選挙制度に問題があると思うのですが、授業中に選挙カーが巡ってくることもあります。「古い体制のこの足立に! 新しい風を吹かせます! 若さと笑顔の○○です!」
その刹那、爆笑する児童たち。それだけで興奮の坩堝でした。ウグイス嬢のマネをし始めたり、「古い体勢」とカン違いして昭和のユニークな体勢(鼻の穴に親指を差し込みそれ以外の指を滑らかにウエーブさせる等)をとり始めたり。
さらには、迷い犬。
21世紀になってとんと見なくなった迷い犬・野良犬の類(たぐい)ですが、1990年代にはごくまれにいました。校庭を走り回る迷い犬は、ここぞとばかりにキャンキャン鳴く。
その刹那、校庭側の窓に駆け寄る児童たち。それだけで興奮の坩堝でした。用務員さんかだれかがその迷い犬を捕まえようと奮闘し、児童は迷い犬のほうに「走れー!」「逃げろー!」と声援を送ります。
「迷い犬」については興奮すべきイベントですが、「消灯」「選挙活動」程度で興奮する小学生には、先生がたもワリと閉口だったのではないでしょうか。軽い舌打ちが出てもおかしくない。
逆にいうと、「消灯」「選挙活動」という普遍的なイベントで興奮の坩堝と化すことができた小学生って、最高の感受性をもっていたよなと思います。
興奮するかしないかは別として、この感受性、すなわち「普遍的なイベントを非日常のそれと解釈して楽しむことと、その範囲の広さ」は、大人になっても大事にしておきたいものです。