仕事をしていると、いわゆる「言葉の定義」が問題になることが多いと思います。
たとえば役割。「統括」「管理」という役割からさも案件や要員や進捗を統括し管理するのかなと思いきや、そこまでは管理しないということがままあります。
これは契約形態に依存することも多いですし、職権が不足していたり、もっといえばお給料をもらってないから「役割範囲外」となる(する)こともあるでしょう。なにをどこまで「管理」し「統括」するのか、認識齟齬を防ぐためにも定義を明確にしておく必要があります。
これは自論ですが、すべてのストレスは根源的には「期待を裏切られる」ことから生まれると思っています。だから役割を明確にし、なにをどこまで期待してよいのかの認識を合わせる必要があるとわたくしは考えます。
「作業をやってくれることを期待する」ことで「作業をやってくれない」とストレスになりますし、意外と「何も起きないことを期待してしまう」ことで「何かが起きる」からストレスになることもあります。
逆にいうと、「誰にも何にも期待しないこと」でだいぶストレスが減りますね。
さて、いま考えれば小学生のころ「サンタクロースはいるか」の議論が噛み合わなかったのも、この「言葉の定義」が曖昧だったことが原因だったのだと思います。
「サンタクロースはいると思うか?」と学友に聞かれて、自分でいうのもおこがましいですが、博識だったわたくしは「北欧フィンランドにはサンタクロースがいる。世界中の子供から受け取った手紙を読み、返事を書いているそうだ。玩具や文具を配布する者もいるそうだ。テレビのニュースで観た」と回答しました。
そしてもれなく、わたくしは「えー、サンタクロースを信じているの?」とバカにされました。
ちょっと待て、「サンタクロースがいるかいないか」の質問だったのではないか。「サンタクロースを信じるか信じないか」となると、つまり「トナカイの曳くソリに乗り上空を浮遊する赤い衣装を着たひげ面の老人が煙突から屋内に侵入し、対象の小児の欲する玩具等を枕元に配布するステレオタイプなサンタクロースを信じるか否か」ということになるにではないか。
わたくしはすかさず「いや、そういうサンタクロースは信じてないよ」と回答しました。
さらに「恥ずかしくなったから(回答を変えたの)?」と言われ、「ああ、小学生にありがちな詭弁か」と思いながらも、「サンタクロースがいるかいないかで言えばフィンランドに手紙を受け取るサンタクロースの格好をした者はいる、ただ、いわゆるおもちゃを配るようなサンタクロースは信じていないし現実的にありえない」と当初の回答をブレることなく続けたのですが、「よく解らない」みたいな反応でした。
お前のサンタクロースとおれのサンタクロースの違いを理解しろよ。「いる」と「信じる」も意味の異なる言葉だろ。言葉の定義が曖昧なままそんな質問をするな。
大人になったいま、おこがましくも小児だったわたくしの回答の完璧さに震えると同時に、こういう小学生みたいな大人、ワリといるなと思いますよね。
言葉の定義や議論の範囲が曖昧で、結論を恣意的に解釈する大人。メリークリスマス。