起床し鏡を見たら、右目がひどく充血していました。
痛みはなし。よくあるやつ。
目の充血で思い出すのは、よく白目を剥いていた職場の先輩。
ともに汗水流して働いたとある大型案件が終了してからはお会いしておりませんが、彼はまだ白目を剥いているのでしょうか。中年男性の白目に、わたくしは想いを馳せます。
「白目やりすぎると血管がアレしちゃうのか、すぐ目が充血するんだ」
「そうなんですね、命懸けの白目ですね」
わたくしはこのようにコメントしましたが、一読しておわかりのとおり、このコメントには意味・目的・理由・具現性・建設性のすべてが欠如しています。
「呼吸」のほうがまだ意味や必然性がある。
白目の先輩との別れから何年か経ち、わたくしの年齢は先輩が白目を剥いていたころのそれに到達しました。
言うなれば白目黄金世代に突入したわけですが、わたくしは一向に「さて、ここらで白目でも剥くか」のマインドになってこないのです。
昨今の在宅勤務等によりオフィスへの出社人数も少なくなったため白目を見てくれる絶対数が減少している事実もあるのですが、なによりも「白目を剥く」意味が解らないからです。
意味、意味。
言語を司る人間は意味の世界に生き、常に意味の呪縛に囚われています。
「意味なんてなくたっていい」「意味に縛られると物事の本質が見えない」とは敬愛すべきタモリさん(タモさん(タモさま))の言葉。
つまり目の先輩は、白目を剥くことで「白目を剥く」以上にたいせつなことを伝えたかったのかもしれません。
意味は、解りませんでしたが。