世界 / 2023(令和5)年1月3日(火)の備忘録

小学生くらいのころ、幹線道路や線路の向こう側は心理的な「別の世界」でした。これは、住んでいた地域や街の規模とかによるものかもしれませんが。

実家の近所にはいくつかの区立公園があり、それぞれ第n公園と呼称されていました。
それらはすべて幹線道路や線路の「こちら側」にあり、どの公園も大きな違いはありませんでした。すべり台やジャングルジム等があるだけでしたが、小学生くらいのころはそれらを不満に思うことなく、いつもの公園が「自分の世界」だったのです。

自転車に乗れるようになり、それを駆って幹線道路の向こう側に繰り出して見かけた公園には「巨大な山」があり、度肝を抜かれました。

ぼくらの知らない「別の世界」は、公園が立体的な造りになっていたのです。

ぼくらの知っている「自分の世界」においては、平面に凡庸な遊具が配置され、複数の樹木が生い茂っている区画が「公園」でした。
しかし、「別の世界」の「公園」には、それらの条件を満たした上で「巨大な山」まであるです。

世界は、広い。
この事実を知り、小学生の頃のわたくしが何となく大人になった気がしたことを、いまでもよく覚えています。

正月休みにこちらの公園に久々に来訪し、あの日の興奮を思い出しました。
大人になったいま訪れると、この「巨大な山」は何てことはない「小さな山」で、数メートルの高さの山を見上げ「そんなこともあったよなあ」と微笑ましくもあります。
保育園くらいの子どもがお母さんと遊んでいるようすを見て、「この子にとってはこれが自分の世界なんだな」と思うと、不思議な感覚でもあります。

いっぽうで、この「自分の世界」と、自らが勝手に定義したボーダーの向こう側にある心理的な「別の世界」は、いまでも重要な概念であるなと、改めて考えました。
その人間における世界をわかつ定義は、いつだって自分次第なのです。

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