杖をつき、かなりゆっくり歩いているおじいさんをよく見かける。
わたくしの住んでいるところはごくふつうの住宅街で、それほどにたくさんの人が歩いているわけではない。
そこにあって、前述のおじいさんをかなりよく見かけるのだ。
おじいさんは自由に曲がらないヒザを押して、ゆっくり歩いている。
おそらく、それ以上ヒザの状態が悪化しないように、歩行訓練をしているのであろう。数メートルの距離を1分くらいかけて歩く。
この日もおじいさんを見かけた。
おじいさんの後ろ姿は、ゴミ集積場にむけてゆっくり歩いている。「ああ、ふだんの生活を送ることを、こうして必死に維持しているのだな」。
近くて遠いゴミ集積場までの後ろ姿を見て、わたくしはそんなふうに思い、何とも言えない、切なくいじらしいような気持ちになる。
わたくしは、「現状維持は衰退」という言葉があまり好きではない。
世界はわずかにも右肩上がりに成長しているのだから、そこにおける現状維持とは衰退だ、という言説である。なんか意識高い系の界隈で聞かれるものだ。
言いたいことは解る。
では、その言説をそのおじいさんの目を見て、言えばいい。
その言説が、どれだけ恵まれた環境にもとづいた発想であるかが解るだろう。
「現状維持」は「現状維持」だ。それ以上でも以下でもない。
言葉の定義を恣意的な前提で変えるんじゃない。そんな非論理的な言説は、わたくしの非論理的な感情「あまり好きではない」で一蹴させていただく。
そんなことを考えながらおじいさんに目をやると、ストローの刺さった『鬼ころし』のパックをゴミ集積場に捨てていた。それだけを持っていて、それだけを捨てていた。
なんというか、「話が違ってくるな」と思った。