勉強のやり方 / 2025(令和7)年1月23日(木)の備忘録

勉強のやり方が解らない。

以前、スポーツがキライだという文章を書いた。↓

わたくしはスポーツがキライです

このなかでわたくしは、こう書いている。

なぜならおそらく、基本的にはみんなできるから。みんな教えられなくてもできていたから。「ふつうできるでしょ」の世界だから。

いや待てよ。「スポーツ」はさておき、「勉強」を教えられたこと、あっただろうか

わたくしは「スポーツは教えられなくても『ふつうできるでしょ』の世界」だと書いている。ウラを返せば、「勉強は『ふつうできない』から教えてもらえる」と読み取れる。
でも、学生時代を思い返してみて、ふつうはできない「勉強のやり方」を教えてもらっただろうか。あったかもしれないが、記憶にはない気もする。とても曖昧だ。

ここでは、「勉強」と「教科」は、わけて考えたい。

もちろん、「教科」は教えてもらえる。数学にしろ世界史にしろ英語にしろ、教科書の説明はあった。確率の計算方法、フランス革命の背景、時制による動詞の変化、いろいろと教えてもらった。
では、それらを血肉にするために取るべき手法/手段、すなわち「勉強」は、どうすればよかっただろうか。少なくともわたくしは、そこを解っていない。

例えると、目的地は教えてもらっても、そもそも「歩き方」をちゃんと教わっていない、そんなところだろうか。

左右の足を交互に出せばとりあえず前には進むが、曲がり方、走り方、休み方、右足と同時に出すのは左手であること、そういったテクニックがないと、エネルギーをムダに使い、場合によっては目的地に着く前に力尽きてしまう。
ただ厄介なことに、まがりなりにも「前には進めている」以上、「歩き方を解っていない」とは微塵も思わない。なので、その「歩き方」を是正しようという発想に至らない。なんなら(中学生くらいまではそれなりに成績がよかったので)、それが正しいと思い込んでしまっている。

わたくしはぜんぶの教科の勉強を「漢字の書き取り」と同じ手段でやってきたが、たぶん対象の教科や自分の学年、理解の目的などに応じてその手段を調整する必要があったのだろう。
先生とかアタマのいい子とかに聞けばよかった。非常に悔やまれる。

ヘンなプライドのせいで、スポーツも勉強もできないまま、大人(クソジジイ)になってしまった。

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