通勤中、仕事始めの憂鬱さを乗せた東武線のドア上部を何となく見ていたら、地下鉄の路線図が貼ってありました。その路線図は、長いこと更新されていないのか、色あせていました。
路線図の青や赤はツヤをうしない、淡い水色や桃色になっていました。
はて、「色あせる」ってなんだ?
わたくしは、路線図のもともとの色合いはなんとなく解ります。
千代田線は濃い緑、都営三田線は濃い青、丸ノ内線は鮮やかな赤。それぞれの色が淡く薄くなり、全般的に黄味がかっていれば、それは色あせています。もともとの彩度を知っているからこそ、「色あせている」と判断できる。
しかしながら、おそらく、東京の地下鉄の路線図を初めて見たとして、それがたまたま色あせていたとしても、「これは色あせている」と言えると思います。もともとの色合いを知らなかったとしても、色あせているか否かは判断できそうです。
つまり、色あせている状態は、相対的な色彩の変化で気づくものではなく、ある種絶対的な色合いのことと言えそうです。
そもそも、「色あせる」はいつから日本にある表現なのでしょうか。
日本が「あせる」ほどに着色された時代は、それほど昔ではなさそうです。逆に、あまり着色技術がなかった時代から「色あせる」という表現を使っていたのであれば、それはそれで興味深いです。
そして、この「色あせている状態」というのは、みな共通的にもっている色彩の感覚なのでしょうか。
彩度を徐々に落とした同一の写真を並べ、それらの写真を鑑賞する被験者の集団に「どこからが色あせているといえるか?」という問いを与えた場合、その集団は概ね同じ写真を指すのでしょうか。
仕事始めの電車で新しい疑問にさいなまれ、おかげで初日の仕事はパッとしませんでしたね。
そんなエクスキューズとともに、今宵は筆を置きます。