「常識」とは「センス」なのか

わたくしは日本語しか話せないし、日本語をとてもたいせつにしているのですが、仕事上においてこの言語の使用は面倒くさいなと思うこともあります。
わたくしはある程度の知識というか、そういったものを持ち合わせているとは思うので、少なくとも次に書くような過ちをおかしたことはないのですが、仕事上の日本語特有の表現において、もうワナとしかいいようのない凡ミスを見てはあらためて「面倒くさい言語だよなあ」と思います。

たとえば、議事録作成時、発言者の名前に「さん」付けはしません。しかし、誰が誰に気を遣っているのかは解りませんが、カッコ書きで「敬称略」と書いたりします。

で、これがごく稀に「敬 省略」となっているんですよね。

書いた本人いわく、「さん付け」を別名「敬」と言い、それを省略するから「敬 省略」だと思っていたそうです。日本語特有の面倒くささに引きづられて爆死してしまった好例ですね。

ほかにも、わたくしの先輩が取引先にメールを送付した際に「小職が調査したところ…」と先輩はへりくだった一人称を使用していたのですが、それに対しての取引先の返信が「>小職さま 調査ありがとうございました」で、ナゾの第三者に謝意を述べていました。このメールはCcが多数だったので、ハデに爆死してしまったな、と思いました。

どちらの例も「常識知らず」だったとその人を非難することもできますが、わたくしはこれらの言いまわし/表現を文脈からなんとなく理解していたに過ぎず、誰からも教わっていません。教わっていないことだけどなんとなくできている、というのを「センスがある」などと言ったりしますが、「常識」って「センス」なのでしょうか。そんな脆いものを振りかざしてその人を非難するなんて、わたくしにはできません。そしてそんな脆いもので殴られても、その人は痛みを感じません。

もちろん他人に対しての敬意や気遣いはたいせつです。
しかし、敬意や気遣いを小さくカプセル化したこれらの言葉はもはや「使っていれば問題なし」と手段が目的化してしまっているだけで、まったく意味はないと思います。

わたくしはこういった言葉の生まれた背景には興味がありますし、なるべく使えたほうがよいなとも思いますが、メールや資料の文面が長くなって非効率だし知らないと恥をかくしで誰もトクをしていないと思います。仕事上においては早く廃れればいい。だいたいビジネスなんて対等なんだから、慮りとか要らないでしょ。

などと思いながらも、わたくしはメール文頭の「お世話になっております」は「おせ」だけ、メール文末の「よろしくお願いいたします」は「よろ」だけ、それぞれ入力すれば変換出力できるように辞書登録しているんですけどね。ああ、面倒くさい。

面倒くせ〜(イメージ映像)
面倒くせ〜(イメージ映像)

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